0480 美濃路を走る

▲2017(平成29)年7月9日(日) 曇

 5年か6年前に探索した美濃路(美濃街道)を再び走ってみました。

 美濃路は、脇街道の一つで宮宿(熱田宿)から名古屋、清須、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣の七宿を経て、垂井宿に至ります。宮宿から垂井宿までの道のりは十四里二十四町(約55km)余で、地図を眺めてみると、最短距離を辿っていることが分かます。昔の人の知恵と知識に感嘆します。

 国道19号伏見通を北上すると、右手にホテルグランコート名古屋の高いビルが目に入ります。金山新橋南の交差点が、美濃街道と佐屋街道の分岐点で、美濃路はここからまっすぐ名古屋城下へ向かいます。この交差点の南西角にある「佐屋路の標石(しるべいし)」を通過し、古渡町、名古屋高速都心環状線をくぐるとすぐに、右斜めに入る道があります。この大須本通を進み、若宮大通、本町通を過ぎると、右手に三菱東京UFJ銀行(旧東海銀行本店)を見て、繁華街をくぐり抜けます。

 伝馬町通本町交差点を左折し、伝馬町通を西に進みます。この辺りが名古屋宿ですが、宿場を感じさせるものは何もありません。この伝馬町筋の一本北が現在のメインストリートである桜通です。
 この辺りは100m四方に区画整理されています。6月に放映されたNHKの「ブラタモリ」で紹介されていたように、碁盤のような正方形の区画がずらりと並ぶ城下町でした。江戸時代の初めに徳川家康が一からつくり上げたものです。家康はここに武士ではなく商人を住まわせ、商業都市としたのです。現在の経済都市名古屋の基盤は家康がつくったのです。

 西進すると、日本銀行名古屋支店がある国道19号に突き当たりますが、そのまままっすぐ横切れません。その南の交差点を渡って迂回し旧街道に戻ると堀川に出ます。堀川は名古屋城築城に際し、徳川家康の命を受けた福島正則が開削したものです。
 伝馬橋を渡ってすぐに右折して堀川に沿って北進します。このあたりは第二次世界大戦の戦災を免れて、古い街道の面影を今に残しています。この街道の一本西側の道が四間道(しけみち)です。この名の由来は防火対策のため道幅を四間に拡げたことによります。

 中橋、五条橋を過ぎ、サンゲツ本社前を左折し、幅下公園のところで右折。北に進むと、広い道が現れます。国道22号を横断し、最初の信号機のある交差点を左折。北西角に注意していないと見落としてしまうような「美濃路」の小さな石標が建っています。
 江川町の交差点を渡り、押切北交差点を通過し、そのまままっすぐに進みます。
 八坂神社前に、美濃路の説明板が立っています。青いブロンプトンに乗った男性がそれを読んでいました。
 この人も美濃路を走っているのか。

 名鉄名古屋本線のガードをくぐると、庄内川の堤が迫ってきます。
 左手には、名駅地区に建てられた超高層ビルが林立しています。JRセントラルタワーズ、ミッドランドスクエア、ルーセントタワー、モード学園スパイラルタワーズ大名古屋ビルヂング。古い家並みと対照的なコントラストです。

 枇杷島橋を越えると名古屋市から清須市に入ります。清須市は、西春日井郡西枇杷島町、新川町、清洲町が合併してできた市です。
 問屋町交差点を斜め左に入り西に進み、新幹線と東海道本線のガードをくぐります。六軒町には問屋記念館があります。かつて問屋は六軒あったことからこの名が付いたそうです。
 街道沿いの店には「みの路 熱田~垂井」の看板が提げられています。街のPR、町おこしの一環でしょう。

 新川に架かる新川橋を渡ります。新川は庄内川の放水路として、江戸時代に開削された人工の川です。南西角にポケットパークがあります。
 名鉄名古屋本線に平行して道なりに進み、津島線の踏切を渡るとすぐ左側に「一里塚跡」の小さな石標があります。須ヶ口の一里塚跡です。
 狭い街道を進み、やがて道は鍵型に左に折れ、またすぐに右に折れます。近くに名鉄の丸の内駅がありますが、これは清洲城の丸の内に由来しています。

 名鉄名古屋本線のガードをくぐり、しばらくして左に折れ、五条橋を渡ると、清洲城清洲公園です。
 ここでトイレ休憩。
 旧本陣跡の前を通り、新幹線・東海道本線のガードをくぐるって、すぐに左折。パロマパナソニック電工の工場を脇に見ながら左に右に曲折しながら進むと、稲沢市に入ります。
 六角堂東町を過ぎ、直角に左折し、東海道本線の線路を渡ります。交通量が多く狭い道なので、歩道に入り安全を確保。
 西に進む。しばらく道はまっすぐ。
 井之口団地の角を右折。工場地帯の中を行くと、右手には三菱電機稲沢製作所の高い塔が見えます。「稲沢」にちなんだ地上173メートルの高さのエレベーター試験塔で、10年前の2007年10月末に完成したものです。

 真新しい稲沢市民病院や名古屋文理大学を過ぎ、左折。名鉄名古屋本線の踏切を渡ります。
 高御堂団地を過ぎると大江用水を渡ります。

 県道136号尾西清洲線を行くと、小沢、稲葉、西町辺りが稲葉宿です。「稲沢」の地名は稲葉村と小沢村の合併によって、1887年(明治20年)にできました。
 西尾張中央道を経由して再び県道136号尾西清洲線を行きます。

 道路脇の住宅に囲まれたところに高木一里塚の東塚跡があり、一里塚碑が設置されています。

 道なりに進み左折すると、国道155号との交差点「串昨」に。さらに進み、名鉄尾西線の踏切を越えた左手のアパートの柵に「舟木一夫ゆかりの地跡」の看板があります。御三家の一人、舟木一夫は、ここ一宮市萩原町の出身です。
 この近くのお好み焼き屋で簡単な昼食にすることにしました。年配の愛想のいいおじさんが一人で切り盛りしていました。
 300円の肉玉お好み焼きは作り置きで、食品トレイにラップがかけられ、冷えて硬くなっていました。
 気の小さい私は、文句を言うことができません。
 ゴミとなったトレイとラップを店に戻すと、
 「スペシャルおまけです」
と言って氷の入ったウーロン茶を1杯サービスしてくれました。これでなんとか帳消しかな。

 萩原商店街は御多分に漏れず寂れています。まさしくシャッター通。店は連なっているものの、開いているのは数店舗。賑わうのは年に一度、ちんどん祭の時だけのようです。
 萩原は、美濃路の宿場町として栄えました。今は、萩原商店街北側で、萩原宿問屋場跡の石碑と本陣跡の石碑があるのみです。もし、古い町並みが残っていれば、名鉄の駅も近いことですし、もう少し賑わいがあったかもしれません。

 日光川に架かる萩原橋を渡って右折し名神高速道路の下をくぐります。西萩原の交差点を過ぎ、県道136号尾西清洲線を道なりに行くと、冨田一里塚が街道の両側に見えてきます。
 東塚、西塚とも原形を保ち、榎も大樹に生育しているのは美濃街道ではここだけで、1937年(昭和12年)に国の史跡に指定されました。石碑と説明板も設置され、トイレもあります。
 美濃街道には、ここまでに古渡の一里塚、名古屋城の西の江川町の一里塚、須ヶ口の一里塚、四ツ家の一里塚、稲葉宿入口の一里塚、高木村の一里塚がありました。しかし現在これらは跡形もありません。道路の拡張や交通機関の発達で一里塚は失われてしまったのです。

 冨田一里塚を過ぎると間もなく、「左 駒塚道 船渡 五丁」と太い字で刻まれた道標が道路西側に立っています。駒塚道というのは、冨田から木曽川を渡った対岸の駒塚村(羽島市)に至る道でした。

 途中、「中華そば ふじや」という店がありました。今度来るときはここで食べてみたいと思います。

 起宿は日本有数の大河、木曽川を控えた渡船の宿場でした。
 先ず、見えてくるのが、尾西歴史民俗資料館と旧林家住宅。ここは、起宿脇本陣跡で国登録有形文化財建造物に指定されています。日本庭園は、江戸時代からあった脇本陣の庭を基にし、昭和初年に当主、林幸一氏が約10年の歳月をかけて細部にわたるまで指示をして作庭したものです。
 この斜め北側に起宿本陣及び問屋場跡の石碑が立っています。

 本日の折り返し地点、起渡船場跡は、金刀比羅神社南側に石碑が建てられ、愛知県指定の史跡となっています。この渡船場美濃路の中で木曽川渡河の場所として、多くの大名・旗本のほか、徳川将軍、朝鮮通信使などに利用されました。昭和30年頃までポンポン船の運行が見られたそうです。 

 来た道を戻ります。
 蒸し暑いですが、曇り空でギラギラの太陽はなりを潜めて、助かりました。

使用自転車:cannondale F700
走行距離:78.5km
走行時間:4時間29分(9時35分発、15時55分着)