0379 探訪あいち 浅野祥雲の作品を訪ねて その4 関ヶ原編

●2016(平成28)年11月20日(日) 曇一時雨

 スケジュールでは、11月19日の開催でしたが、雨のため、本日に延期して実施しました。

 浅野祥雲(あさの しょううん)の作品をテーマに企画した探訪あいち。
 第1弾は南知多町の中之院・別名たぬき寺にある軍人象、第2弾は日進市五色園にある親鸞聖人の宗教テーマパーク、第3弾は犬山市の桃太郎神社、そして、第4弾、最終回は関ヶ原ウォーランドです。
 今回は私の好きな旧街道巡りをセットにしました。加納宿を出発し、河渡宿美江寺宿、赤坂宿、垂井宿、関ヶ原宿を終点とします。

 本日、JR岐阜駅に集合した参加者は4人。
 昨日の雨天中止の影響もあって、青いカタバミさんの企画とaQsimさんの企画と3つが重なったことと、実施場所が県外でしたから、参加者は少ないと思っていました。
 白のトレックさん、hbさん、菰野のカンさん。少数精鋭です。

 カンさんは今日の朝4時に参加表明し、車をゴール地点の大垣に停め、15km自走して岐阜駅までやって来ました。早朝からご苦労様です。あとの3人は輪行で、偶然同じ電車でした。

加納宿
 8時過ぎ、岐阜駅前加納口をスタート。駅周辺が加納宿ですが、現在の岐阜の中心部ということもあって往時を偲ぶ物はあまり残っていません。ただ、くねくねした道は当時のままです。
 長良川には今でも「小紅の渡し」が運行しています。
 河渡橋を渡ると河渡宿です。

河渡宿
 河渡宿長良川右岸堤下の宿場で、常に洪水に見舞われ、当時の面影は残っていません。
 民家の間の狭い場所に鎮座しているのが「松下神社」です。
 説明碑に「文化12年の洪水で宿場存続の危機に見舞われたが、時の代官松下内匠が5尺の土盛をして宿を存続させた。この功績に村人は松下神社を建立」と刻まれています。松下代官は偉い方だったのですね。
 ここは一里塚があった場所で、神社の入口の「河渡宿碑」は「一里塚跡碑」も兼ねています。

美江寺宿
 樽見鉄道の踏切を越えると、美江寺宿に入ります。宿場の中心部にある美江神社には「美江寺宿跡」碑や「中山道文間延絵図」「宿場の説明」板、高札場も復元されています。
 社務所のトイレは自由に利用することができ、私たちも利用させてもらいました。
 河渡宿に比べると古い家も残っており、宿場の雰囲気が感じられます。

小簾紅園(おずこうえん)
 孝明天皇の妹である皇女和宮徳川家茂の元に嫁ぐために、中山道で江戸に下った折、呂久川(揖斐川)の呂久の渡しを利用した際に、

 「落ちて行く 身と知りながら もみじばの 人なつかしく こがれこそすれ」

の和歌を詠まれました。これを記念して、1929(昭和4)年にできた公園です。
 園内を散歩していたおばあさんにシャッターを押してもらい、美しい紅葉をバックに集合写真を撮ることができました。

赤坂宿
 赤坂宿はかつては水運で賑わい、500艘もの船が往来する川湊で栄えた場所でした。しかし、美濃赤坂線の鉄道開通に伴い、合わせて下流に水門が建設されたことにより船の航行が困難となり廃絶しました。現在は親水公園として整備されています。
 ハイカラな洋風建築の赤坂港会館は、元は屯所(警察署)でした。その後赤坂商工会議所、金生山化石館として利用されました。その名残で館内には金生山で採石された大理石が展示され、かつての賑わいを記録した貴重な写真が展示されています。
 ボランティアの年配の女性に、このような説明を丁寧にしてもらい、写真も撮ってもらいました。

 ところで、赤坂って全国にありますよね。東京の赤坂が一番有名ですが、美濃の赤坂の由来ってどこから来てるんでしょう。ボランティアの女性に聞いてみましたが、わからないとのこと。
 また、美濃赤坂の地は十六銀行発祥の地でもあるそうです。

昼飯大塚古墳
 「ひるめし」ではありません。「ひるい」と読みます。4世紀末の築造で、東海地方最大級の大きな古墳です。公園として整備されています。遊んでいた小学生の男の子達が、私達のロードバイクに興味を持ったのか集まってきて、質問攻めに遭いました。

垂井宿
 垂井宿は赤坂宿ほどではありませんが、枡形と呼ばれるクランクや古い町並み残っていて、往時の雰囲気が感じられます。

垂井の一里塚
 垂井の一里塚は、中山道で二つしかない国の史跡に指定されている一里塚の一つです。一里塚は人馬を借りる駄賃を定める目安や休憩場所でした。
 一里塚の東にあるお茶所でボランティアの方々が歓迎してくださいました。垂井一里塚愛好会のメンバーが毎週日曜日に一里塚を訪れる人を接待しているそうです。私たち4人も温かいお茶とお菓子をいただきました。
 一里塚を見上げて「あれっ!?」。頂上にあるべき松がありません。
 「松食い虫にやられたんです」
 残念です。また、松を植えてもらいたいものです。
 時間は11時。朝が早かったので、お腹が空いてきました。
 塚の前にラーメン屋がありましたが、11時半から営業とのこと。関ヶ原まで進みます。

関ヶ原宿
 岐阜県内では唯一残っている野上の松並木を通過する頃、雨が降ってきました。
 「岐阜市の天気予報では雨じゃなかったのに、当てにならないなぁ」
 しかし、家に帰ってから天気情報を確認したら、垂井や関ヶ原はお昼頃は傘マークになっていました。岐阜市は曇でも関ヶ原町では雨だったのです。
 ただ、小雨でしたので、雨具を着るほどではありません。

 11時半、昼食場所に想定していた『梺(ふもと)』に、到着。混み合う前でしたから、すぐに席に座れました。
 4人とも一番安い「かつ丼セット」を注文。ミニうどん付きで1,058円です。手打ちうどんを謳い文句としているだけあって、うどんは美味しかったです。かつ丼は、味、量ともノーマルといったところでしょうか。

関ヶ原ウォーランド
 1964(昭和39)年にできた関ヶ原ウォーランド関ヶ原合戦当時の戦場を再現したテーマパークです。カラフルな等身大のコンクリート製の武者像200体以上が、合戦時の陣形図のまま配置されています。これらの像の作者が浅野祥雲です。ただ、半世紀以上経っていますから、色は褪せ、コンクリートが剥がれ落ち、劣化が激しいのは否めません。施設全体もボロボロです。
 しかし、不気味なリアリティがあります。
 「夜、ここに来たら不気味ですよね」

 浅野祥雲(1891年生~1978年没)は、現在の岐阜県恵那郡坂本村(現中津川市)に生まれ、33歳のとき名古屋に移住しました。コンクリートで人物像や仏像を作るという、一風変わった芸術家・造形家です。彼の作品は中部地方を中心に800体近くが現存しています。

 祥雲の作品を見ていると、中国の兵馬俑(へいばよう)を連想します。兵馬俑は、今からおよそ2,200年前、始皇帝の巨大な陵墓(りょうぼ)のほど近くに埋められた地下軍団です。等身大の兵士や馬、戦車などの焼き物(俑)で、その数は8,000と推定されています。1974年に発見され、現在も発掘は続いています。
 兵士達の顔はリアルの表現され、一体一体表情が異なります。現在は色が剥げていますが、色彩豊かに色が塗られていたそうです。
 浅野祥雲の作品に通じるものがあるように感じます。

 ウォーランドの駐車場には何台もの観光バスがありました。土産物屋には観光客が大勢います。かつての賑わいはないかもしれませんが、今でも珍スポットとしてそれなりの需要はあるのでしょう。

 関ヶ原町歴史民俗資料館の南隣にあるレンタサイクルハウスの寄ります。この建物には家康や光成ら武将が描かれていて人気の記念撮影スポットになっています。
 ちょうどおばさん2人が自転車を借りて出てきたところでした。
 「すいません。あれをバックに写真を撮っていただけませんか?」
 快く引き受けてくれました。
 「私も先日、トレックの自転車で100km走ったところですよ」
 「そうですか。またどこかでお目にかかりたいですね」

奥の細道結びの地
 復路は、とても快適です。下り坂が多く、しかも追い風。ペダルも軽く回ります。
 垂井の追分から美濃路経由で大垣に向かいます。17km程の距離ですが、あっという間に奥の細道結びの地に着きました。
 ここには旅姿の松尾芭蕉銅像が建っています。
 「これも、祥雲さんの作品ですか」とhbさん。
 「これは違います」
 時計は午後2時。予定よりも早く着きました。このあと、大垣城に寄って大垣駅で解散するつもりでしたが、hbさんと白のトレックさんは名古屋まで自走するということで、ここにて解散することにしました。本日の探訪あいちの結びの地としてちょうど良いかもしれません。
 それにしても、2人ともタフですね。気をつけてお帰りください。カンさんは車で、私は岐阜駅まで自走して、輪行で帰宅しました。

【サイクリングコース】
JR岐阜駅(午前8時)→ 加納宿 →〔長良川〕→ 河渡の一里塚・松下神社 → 河渡宿美江寺宿 →〔揖斐川〕→ 赤坂宿 → 赤坂港会館 → 昼飯大塚古墳 → 美濃路追分道標 → 垂井宿 → 垂井の一里塚 → 野上の松並木 → 関ヶ原宿 →〔昼食:関ヶ原「梺」にて〕→ 関ヶ原ウォーランド →〔美濃路〕→ 奥の細道結びの地(午後2時)
距離:51km
高低差:108m
所要時間:6時間

【参加者】
白のトレックさん、hbさん、菰野のカンさん、幹事  計4人

使用自転車:KHS Manhattan m451S
走行距離:77.3km
走行時間:4時間24分