0178 浅野祥雲の作品を訪ねて その2

◆2015(平成27)年6月13日(土) 晴のち曇

 浅野祥雲の作品巡りの第2弾。
 南知多町山海の中之院を目指します。
 距離があるので、朝7時45分に家を出ました。

 グランドホテル山海館の先で左折し、天竜寺というお寺の先にあると、地図で目星を付けていたのに迷ってしまいました。
 岩屋寺という大きな寺があり、これから知多四国八十八箇所巡りに出発するとおぼしき、白装束の集団がいました。バス1台分ぐらいの人数はいたと思います。これだけの白い塊を見ると、ちょっと異様です。
 その岩屋寺の先の細い道を進むと、右手に小さな「たぬき寺」の看板が目に入りました。
 ようやく発見しました。
 想像していたよりずっと小さなお寺でした。

 門の回りに狸の像が何体もありました。そこを通り抜けた奥に、ありました。目的の軍人象が。
 これは先週見た五色園の象とは明らかに造りが違います。ユニークさは一欠片もありません。戦争で命を亡くした軍人達のコンクリート象が、何十体と、こちらに迫ってくるかのように整然と並んでいるのです。これは、鎮魂の象です。厳粛な気持ちにさせられます。

 私の下手な文章よりも、説明板を読んでいただいた方がよくわかると思います。

「中之院 軍人像について
 ここの軍人像のほとんどは昭和12年上海上陸作戦における呉淞の敵前上陸で戦死された名古屋第3師団歩兵第6連隊の兵士たちです。
 緊急の出動で名古屋城内の兵営より名古屋港まで夜間13キロの徒歩行軍の後、船で野間沖に待機していた巡洋艦駆逐艦に乗り込み、わずか26時間で揚子江河口付近に到着後の昭和12年8月23日の敵前上陸でしたが、上陸後半月足らずでほとんど全滅してしまいました。
 軍人像そのものはめいめいの遺族が戦没者の一時金をもって写真を基に造らせ建立したものです。昭和12年から18年のことと言います。
 また戦後進駐軍が取り壊しを命じた際、僧侶が、国のために死ぬということはアメリカも日本も変わりはない、あれを日本人の手で壊すことはできない、どうしても壊すというなら我々をこの場で銃殺した上であなた方が行って壊せばいいだろうと頑張ったおかげで像は壊されずにすんだということです。
 建立当時より名古屋市千種区月が丘にあったもので、当山には御縁により平成7年11月にお移しし、この地で安住いただいております。
 現在もよくご遺族ご縁者の方々が御参りにいらっしゃっています。
                           天台宗 大慈山 中之院」

 戦争ほど悲惨なものはありません。彼らは人間ではなく、物として扱われたのです。

 往路は国道を離れて、内海の海岸線を走ってみました。
 海水浴場ではライフセービングの大会が行われていました。日焼けした屈強な体躯の男性が大勢いました。
 「いい体してるなあ」
 同性ながら惚れ惚れしてしまいます。
 サーフスキーを使ったレースやビーチフラッグスなどの競技が繰り広げられるそうです。

 お昼は美浜町野間の『灯台ラーメン』に行きました。
 店の前は何度も通っているのに、入るのは初めて。昭和48年にオープンし、42年間続いている老舗です。
 一番人気の看板メニュー「灯台らーめん」を注文。味噌味で野菜たっぷり、味も量も満足でした。多少並んでも食べる価値があります。

 知多市歴史民俗資料館にも立ち寄り、帰宅は3時50分。ちょっと疲れました。

使用自転車:Panasonic POSクロモリロード
走行距離:122.3km
走行時間:5時間45分
所要時間:8時間